夢想譚

過去、現在、未来について日々考えたこと

『風の谷のナウシカ』がやってくる?

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ここのところ、意識が政治に振り回されて、10万円給付問題に見られる緊縮財政問題森友学園で自殺された赤城さん民事訴訟での「認諾」問題、などなどを考える時間が多くなった。正直言って冬の美味しい食べ物を探して家族と楽しむ時間や、じっくり読書に勤しむ時間に使いたいのだが、はてさて。

 

政治・経済の問題を考えているとき、イライラしてくるのは「どうしてこんなこと知らないのだろう?どうしてこんな人に投票するんだろう?」「ちょっと勉強すればわかることをなんでマスコミに踊らされるんだろう?」ということ。みんな「クソ」人間になっていくように思ってしまうのです。でも、いつの時代もそうだったんでしょうね。

 

ここのところパンデミックで加速していく貧困化する日本を見ていて、かなりお金が世の中を動き回らないと将来は明るくならないだろう、と検討が簡単に着くのに殺人集団ー財務省プライマリーバランスの黒字化を理由に緊縮財政を強調してして他省への権限を強めようとしていますよね。財政は「健全」であるに越したことはないけれど、沈没しそうな日本を浮上させるためには、プライオリティが違うだろうよって思うんです。

 

お金のことを「お銭(あし)」っていうでしょう?そして大判小判の紋様は「草鞋」のように見えませんか?つまり、お金はくるくる動き回ることで世の中が活性化することを昔の人たちは知っていたんでしょうねきっと。金庫で大量に寝ている状態は良くない。それを市中に出して十分な量が動き回るようにプッシュしなければいけないんですよ。

 

企業も一般国民も、将来に不安があると「お銭」を抱え込んで動かなくなる。そう、今大事なのは明るい将来のビジョンと十分な貨幣の量が動き回るようにプッシュすることで、緊縮することではないのですよ。ところが、多くのテレビキャスターが「赤字国債は国民にとって将来の借金でしょう?」「赤字国債は税金で返すんでしょ?」なんていうもんだから多くの国民がそう思ってしまう。国の財政の仕組みをちょっと勉強すれば、「そうじゃあないんだよ」ってすぐわかることを、「無知」ななままテレビキャスターや政治家や経済学者のいうことを信じてしまう。

 

本当に「なんじゃコレ?」「オーマイガッド!」ですよ。(これについてはもう一つのはてなブログ『徒然なるしらべにのって』の「財政政策「仁義なき戦いに」物申す」をsご覧ください)

 

例えば、この国の「貧困の基準」が何か知っていますか?日本国憲法の25条に「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と書かれているのを知っていますか? では、「健康で文化的な最低限度の生活」ってどんな生活かわかりますか?

 

まず日本国憲法についてですが、自民党や右派つまり天皇制と軍隊固執する勢力は、日本国憲法を「アメリカに押し付けられた。独立するには日本国憲法を変えなけrばいけない。」っていうでしょう。そうです、彼らには「押し付けられた」憲法なんですが、GHQですら日本の憲法の民間草案を参照していたし、明治時代から植木枝盛に代表される一般人の起草した民主的な憲法草案はたくさんあるんですよ。ですから、多くの国民には当然の憲法で「押し付けられた」とは思っていないでしょう。

 

こと日本国憲法25条(生存権と呼ばれる)は、帝国憲法改正案委員会(選挙により選出された国会議員で構成された)の中の秘密会とされた小委員会で、GHQ草案の条文の修正を審議したのですが、その際に森戸辰男衆議院議員(経済学者)が発案して合意された条文で、GHQ草案には全くなかった条文なんです。

 

森戸辰男氏は、議員になる前にドイツへ留学していました。ドイツにはワイマール憲法と呼ばれる世界で初めて「生存権」を規定した有名な憲法があり、彼はそれを見たあと戦後の国民の窮状を見てなんとか権利として補償させたいと思ったそうです。そして、小委員会の委員長であった芦田均に反論され、あつい議論を交わした上で他の議員の賛成を得たようです。

 

この論戦はとっても大事なんです。芦田氏は「追求する権利だ」と強調したが、森戸氏は「追求する権利があっても、現在のような困窮状態がある。国によって補償されなければならない。」と応戦した。これを含む小委員会の議事録は50年間封印されていたために、わたしたちの知るところではなかったのです。ですから平気で「押し付けられた」という主張ができ、それに対する明確な反論が出きなかったのでしょうね。

 

さあ、ここで「健康で文化的な最低限度の生活」とはどんな生活なのかと考えてみましょう。というのもその理解が、我が国の生活保護社会保障にも貫かれているからです。このところが問題になった有名な訴訟があります。昭和32年(1957)、重度の結核で国立療養所に長期入院していた朝日茂が、生活保護費の支給基準は劣悪で、憲法に規定する生存権を侵害するとして訴えた行政訴訟で、朝日訴訟として知られています。別名「パンツ1枚訴訟」。

 

原告(朝日茂)は結核で国立岡山療養所に生活保護を受けながら入院中、実兄からの仕送りが始まったのを理由に月額600円の日用品費支給まで停止された。しかし、日用品費等は「余りにも低額で憲法生活保護法に反する」と訴えたのです。当時の日用品費600円の内訳は、2年間で肌着1枚、1年間でパンツ1枚、タオル2枚、下駄(げた)1足、湯飲み1個などとあります。

 

ちょっと想像してみてください。「2年間で肌着1枚、1年間でパンツ1枚、タオル2枚、下駄(げた)1足、湯飲み1個」であなたなら「健康で文化的な最低限度の生活」を営めますか?裁判所はこれを合憲としたんです。とすると、裁判官たちは「2年間で肌着1枚、1年間でパンツ1枚、タオル2枚、下駄(げた)1足、湯飲み1個」で生活を営む自信があるということですよね!わたしにはありません。どうですか?裁判官たちは、1年間をパンツ1枚で生活できるそうです。

 

しかも、最高裁は傍論(ぼうろん)で、憲法25条は「国の責務として宣言したにとどまり、直接個々の国民に対して具体的権利を賦与(ふよ)したものではない」と、見解を出したんです。ここで思い出してください。憲法25条の成立過程の芦田氏と森戸氏の議論を。憲法25条は、政治的・道義的な目標と指針を示す「プログラム規定」であるのか、条文通り国民がその「権利を有する」のか。明らかでしょ、条文通り国民がその「権利を有する」でのすよ。

 

生活保護制度は、幾度となく改定されましたが、この「年間パンツ1枚」思想は制度の根底には流れています。健康で文化的な最低限度の生活」は、具体化する法律によって具体的権利となるわけで、それを定期的に見直し最適化する義務が国にあるはずです。

 

これをみても、先日の森友事件の赤城さん訴訟に対する政府の「認諾」逃げ切りを見ても、とてもじゃあないけど一端の民主主義国家とは言えません。それを許しているわたしたちは、もう一度自分を見直すべきでしょう。

 

でも、悲観することはないと思います。前回の『すてたもんじゃあないぜ!』でも書いたように、Z世代に純粋に「なんかおかしいなあ」と世の中の矛盾と誤りを感じとり、それを正さんと活動する者たちが出てきているんですよ。「ジェネレーション・レフト」という言葉を聞かれたことがあるかもしれません。今アメリカの若者の半数近くが「共産主義」の方が良いのではと答えるようになっています。イギリスでもそのような若者は増えています。

 

気候変動に対して物申す活動家グレタ・トゥーンベリに続けと、日本でも気候正義を求めて闘うZ世代が現れています。気候変動・温暖化問題だけではなく、さまざまな人権を擁護するために立ち上がったZ世代の若者が全世界に現れています。

 

彼らが「左翼」だの「左派ポピュリズム」だのということはどうでも良くって、彼らの主張が受け入れられるリーズナブルなものなのかどうかが大事です。どうして、そのような活動に邁進しているのかというと、原点は幼少期に見聞きして「あれっ?なんかおかしいな?」「なぜそうなの?」と思い、考え続けたことのようです。まさに子供心に芽生えた純粋な疑問、そして「どうでもいいや」と言って思考から除外せずにいたこと、それが原動力なのですね。

 

スタジオジブリ宮崎駿監督の『風の谷のナウシカ』を見ましたか?「王蟲を怒らせないで、王蟲を怒らすと地球が滅びる」!風の谷はまさに宮崎駿監督が描いたアンチ化石燃料の世界ですよね。旧人類があまりにも生命を蔑ろにしてきたことに対する怒りと浄化がテーマでした。ナウシカはこう言います。「大地を傷つけ奪いとり汚し焼き尽くすだけのもっとも醜い生き物。蟲達の方が私達よりずっと美しい」。誰もが幼児期にこんな感覚を持つことがあるでしょう。純粋で真っ直ぐに理解する幼児期の感覚です。これを『理性』と呼びます。

 

でも多くの人は、大人から「これが常識なんだよ」と教え込まれながら、この純粋さ=理性を失っていきます。Z世代には、まだそれを失わずにこだわり続けている者たちがいるんだと言う事です。ことに、2008年のリーマンショックとこのパンデミックと言う「出来事」は、これまで当たり前だった支配的秩序を不安定なものとし、「常識」だったものを瓦解させる。ここに「幼児期の純粋な、なぜ?なんで?なんかおかしい?」と言う感覚が作用し、『ジェネレーション・レフト』を生み出しているのでしょう。

 

わたし自身、大学で学生運動に身を投じて、マルクスレーニン、その他ロシア民主主義者の著作を紐解いたのもそう言うことだったのでしょう。冷戦の東西対立が高まり、モスクワオリンピックをボイコットした年に入学しました。詳しくは言えませんが、親を見ていてこの世の中は何かがおかしいと思っていて、大学で平和や人権の問題を突きつけられて、学生運動、83年燃える秋のヨーロッパ反核運動、三宅島及び逗子市池子の森市民運動などに身を投じていきました。

 

ところが社会人になって、後ろ髪を引かれながらも仕事に忙殺され、全く何もしない日々が続きました。今は、家族、読書、などたっぷり時間があるために、世相の分析やレジリエンスを求めての知識や情報の検索に余念がありません。そして、以前もう一つのはてなブログ『徒然なるしらべにのって』で「脱成長コミュニズム:斎藤幸平さんへの手紙」で書いたように、斎藤さん(わたしの出身大学で教鞭を取られています)追っかけをしていて出会った雑誌『POSSE』で活動するZ世代のことを知りワクワクしながら情報を仕入れてる今日この頃です。「亀裂に楔をー若者はSNSで政治を変える」では、SNSを使って政府決定を変更させたことに触れ、Z世代への応援をしたくなったのですよ。

 

まあ、簡単に真っ直ぐこの「ジェネレーション・レフト」が進み拡大するとは思いません。きっと反対の極からさまざまな「妨害」もあると思うし、揺り動かす力も加えられるとは思います。特に経済的格差が拡大すれば、右の極にも左の曲にも触れるものです。でもわたしには「闇の中の一条の光」に見えるのです。彼らの思考や行動は、きっと民主主義を前進させてくれるでしょう。彼らは、『風の谷のナウシカ』だ!

 

では次回まで。