夢想譚

過去、現在、未来について日々考えたこと

「思いを馳せる」ことで自分ゴトに!

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2021年12月16日から17日にかけて、920hpp前後の強い勢力で台風22号(ライ/フィリピン名:オデット)がフィリピンに上陸。大型の台風は、フィリピン北部からボホール島、セブ島ミンダナオ島パラワン島など、合計9つのフィリピンの島々に上陸を繰り返しながら通過し、台風による甚大な被害をもたらしました。停電や通信網の遮断により、台風被害の全容を把握するのに時間がかかっていますが、2021年12月20日の時点で452,307世帯が被災被災者数1,805,005人、死者208人、行方不明者52人と報告されています。

 

わたしは、2020年の8月にセブ島から日本に家族と共に戻ってきました。直接の原因は、コロナ禍でアヤラ・モールで開いたオプティカル・ショップ(眼鏡店)が立ち行かなくなったこととわたしが透析を受けねばならなくなったためです。13年強フィリピンで生活し、幾度か災難にも遭いましたが、これほどの台風にはラッキーなことに会いませんでした。

 

セブ島の友人から悲痛な声がFacebook通じて届いています。中でも、水・電気・通信に対する欠乏感はとんでもないようです。フィリピンでは、水は地域やマンションについているタンクから供給され、タンクへは契約している業者が定期的に継ぎ足す仕組みです。タンクが壊れた、業者の水を綺麗にする機会が動かない、タンクローリーが遮断されて走れない、さまざまな理由で水が手に入らない。そうなると、トイレ、シャワー、飲み水、調理、が停まってしまい死活問題になっています。

 

ドゥテルテ大統領によると、新型コロナ対策で国家財政は逼迫しており、救援にことを欠いているという。そんな中、ユニセフをはじめとした国際団体やNGO、日本政府や日本企業などによる支援が続々と集まり始めています。がしかし、フィリピンでよくあることですが、それらがきちんと被災者に届けば良いのですが。新型コロナが始まって政府から配布された米などの食糧は、なんと自治体の長や職員が盗んで販売していたりととんでもないことが起こっていました。

 

どうかいち早く普段の生活が戻ってくるように祈ります。

 

ところで、格差、分断、新自由主義ポピュリズム……民主主義の危機、これらは頻繁に聞く言葉になりました。しかし、それぞれが何を意味しているかとなると、曖昧または明確に説明できないものが沢山あります。

 

このパンデミックという「危機」は、気がつかなかった政治及び経済の諸問題を白日のもとに晒しました。世界では多くの学者や活動家が、現制度や社会の問題点を指摘しつつ新しい世界への進むべき道や「かたち」を示唆しようとしています。

 

我が国では、岸田首相が「新しい資本主義」なんてことを言い出したものですから、一体「新しい資本主義」ってなんなんだと議論を巻き起こしています。同時に、「新自由主義」からの脱却なんてことも話題に上っていますよね。

 

まあ、そんなことは気にせず1日1日を楽しく過ごせばいいじゃないか、と嘯くこともできるかもしれません。でも、気づかないうちに泥沼に自分の足がのめり込んでいる、気づかないまま他人の足を踏んづけている、なんて事態になることは性分として嫌なんです。ですから、やっぱり考えずには、すっきりとしない訳にはいかないのですよ。しかももう何年もの間、本を読んだり、活動したり、議論したりすることを続けてきたのだから、多少の蓄積はあるし、自分の頭で考えることは止めるべきではないと思うんです。

 

ことにわたしの妻はフィリピン出身です。昨年共にわたしの透析をきっかけに日本に帰国して、生活を助けるために介護ヘルパーと中学に上がる前の子どたちに英語を教える塾での仕事につきました。フィリピン人を妻にもつ方はよくご存知のように、フィリピンの家族を助けるという目的で一生懸命に仕事をして仕送りをしたり夫の家計を助けるのは、彼女たちの普通の姿です。

 

妻は、フィリピンではドクトーラ(ドクター)と呼ばれるように、オプトメトリストと呼ばれる医者です。でも日本では、日本語もまだ不十分だし、まして医者として仕事をすることもできません。なので、介護ヘルパーと教師をして頑張っています。ありがたいし、申し訳ないという気持ちでいます。

 

妻を介して初めて介護現場を知ることになりました。また、沖縄の高齢者施設で新型コロナのクラスターが発生し、厚生労働省のDMATの次長を務める弟が対策のために派遣された時にも、介護現場で働く外国人に対する問題を相談されたこともあって実態を知ることになりました。もちろんニュースや書籍などで実態を知っていたつもりでしたが、自分ゴトにはならなかったですね。「ひどいんだなあ」と思ったレベルです。

 

そして、妻の母親代わりのアメリカに住む叔母が、新型コロナ騒動の一つとして、アジア人に対する暴行や攻撃が始まり、日々身の危険を感じるという電話が何度もありましたので、新型コロナを介して、介護現場の問題と人種ヘイト問題の二つを自分ゴトとして考えるようになったのです。

 

介護現場の問題を通じて、賃金問題、外国労働者問題、人種差別、そして高齢者への対応、とさまざまな問題があることを身をもって知りました。介護現場では、きつい労働の一つは排泄の処理です。あとは力仕事でお風呂に入れる時やトイレをサポートするのに老人を抱き抱える仕事です。多くの介護ヘルパーが、腰が痛いと訴えています。ほとんどの外国人労働者は、介護福祉士の資格を持たない最低賃金で仕事をする地域に住むわたしの妻のような人達か、最低賃金以下の賃金で働く実習生です。

 

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介護福祉士や看護師の日本人は、これらのきつい労働を外国人にさせることが多く、絶えず体が痛いと不満を漏らしているのです。こんな賃金でこんなきつい仕事をするのは、なんて理不尽だと思います。だって、ファミレスやマクドナルドでバイトした方が賃金は高いわけでしょ。そして、明らかに外国人蔑視ですよ。

 

ある日、日本人の若者が妻の職場に応募してきたそうです。その子は、排泄の処理ができず1日で辞めてしまったそうです。そうなりますよ、大切だけど好き好んでやる人は日本では希少だと思います。「あなたが老人になって痴呆を発想したりして自分一人でトイレに行けなくなったら誰が一体それを助けてくれるんですか?」って自問自答してみる必要があるでしょうね。今は、日本の方が賃金が良いからと来てくれる外国人はいます。でも、経済状況は逆転する可能性も見えています。そうなれば、誰が日本語を習得するコストを払ってまで、このきつい仕事に携わってくれるでしょうか?

 

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                 離職率

 

また、弟が沖縄から「高齢者施設で働くフィリピンの人が多いのだが、休みがちんだ。新型コロナが怖いからだと思うので、こうすれば怖くないよという指示書を現地語で作って渡そうと思うので英語とフィリピン語に翻訳してくれないか」との依頼が来ました。もちろん引き受けました、ただしサーターアンダーギー(沖縄のドーナッツ)を送ってくれることとを引き換え条件にしてですが(笑)。でも、フィリピン人が休みがちなのは、仕事のキツさ、差別、低賃金、というのも理由として考えないといけないよとアドバイスしました。

 

妻の職場だけが、そうなのかなあと思ったので、外国人の人材紹介をしている方々に聞いてみたら、ほぼどこの高齢者施設も同じような状況で、外国人は不満を言い1年くらいで辞めてしまうことがわかりました。全国津々浦々おそらく似たような状況にあるんでしょう。そして、高齢者施設で働く外国人からよく聞かれるのは、「日本人の介護士はお年寄りに優しくないわ。私はこんな国で歳をとりたくない」ということです。

 

高齢者施設や医療現場で最近「死」に至る事件が起こっています。大阪では、医療に携わるワーカーを削減し、過労死に至る現実が訴訟を通じて明るみに出ました。相当なストレスなんでしょうね。岸田首相は、「3%の賃上げ」を約束しましたが、考えてください、何なのそのメダカの涙ほどの施しは、と思いませんか?現場を全くみてないことを暴露しているだけ。

 

とはいうもののですよ。妻の体験がなかったら、「3%の賃上げ」と聞いて「岸田首相もやるなあ」と思ったかもしれません。「大阪の身を切る改革」に応援をおくったかもしれません。と、正直に言います。

 

わたしを含めて誰でもが、「慮る」「思いを馳せる」という人間にしかない理性をもっていますよね。自分の身に直接起こっていない事柄でも、理性を使えば「自分ゴト」にできます。大学時代の自分自身はそうでした。だから、危険を承知で路上にデモにも出ました。

 

覚醒したのかな?とにかく、世の中の問題に日々触れることで、なぜなんだ?どこに問題があるんだ?解決策は?と考えることが多くなりました。同時に以前も書いたようにレジリエンスを求めるようになりました。しっかり「本質や真実を見つめ」ないと、真実は歪められ隠され、「クソ」マスゴミを通じて間違った事柄を身体に染み込ませて日々満足するような「クソ」愚民になってしまう。そう感じるのです。

 

今後、格差、分断、新自由主義ポピュリズム……民主主義の危機について、調べて考えたことをここで共有してゆきたいと思うのです。きっと、最大のテーマは「資本主義の修正か超克か」そして「次に来たるべき社会のかたちは何か」ということになるでしょうね。

 

ぜひ、お付き合いいただけることを希望して。

『風の谷のナウシカ』がやってくる?

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ここのところ、意識が政治に振り回されて、10万円給付問題に見られる緊縮財政問題森友学園で自殺された赤城さん民事訴訟での「認諾」問題、などなどを考える時間が多くなった。正直言って冬の美味しい食べ物を探して家族と楽しむ時間や、じっくり読書に勤しむ時間に使いたいのだが、はてさて。

 

政治・経済の問題を考えているとき、イライラしてくるのは「どうしてこんなこと知らないのだろう?どうしてこんな人に投票するんだろう?」「ちょっと勉強すればわかることをなんでマスコミに踊らされるんだろう?」ということ。みんな「クソ」人間になっていくように思ってしまうのです。でも、いつの時代もそうだったんでしょうね。

 

ここのところパンデミックで加速していく貧困化する日本を見ていて、かなりお金が世の中を動き回らないと将来は明るくならないだろう、と検討が簡単に着くのに殺人集団ー財務省プライマリーバランスの黒字化を理由に緊縮財政を強調してして他省への権限を強めようとしていますよね。財政は「健全」であるに越したことはないけれど、沈没しそうな日本を浮上させるためには、プライオリティが違うだろうよって思うんです。

 

お金のことを「お銭(あし)」っていうでしょう?そして大判小判の紋様は「草鞋」のように見えませんか?つまり、お金はくるくる動き回ることで世の中が活性化することを昔の人たちは知っていたんでしょうねきっと。金庫で大量に寝ている状態は良くない。それを市中に出して十分な量が動き回るようにプッシュしなければいけないんですよ。

 

企業も一般国民も、将来に不安があると「お銭」を抱え込んで動かなくなる。そう、今大事なのは明るい将来のビジョンと十分な貨幣の量が動き回るようにプッシュすることで、緊縮することではないのですよ。ところが、多くのテレビキャスターが「赤字国債は国民にとって将来の借金でしょう?」「赤字国債は税金で返すんでしょ?」なんていうもんだから多くの国民がそう思ってしまう。国の財政の仕組みをちょっと勉強すれば、「そうじゃあないんだよ」ってすぐわかることを、「無知」ななままテレビキャスターや政治家や経済学者のいうことを信じてしまう。

 

本当に「なんじゃコレ?」「オーマイガッド!」ですよ。(これについてはもう一つのはてなブログ『徒然なるしらべにのって』の「財政政策「仁義なき戦いに」物申す」をsご覧ください)

 

例えば、この国の「貧困の基準」が何か知っていますか?日本国憲法の25条に「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と書かれているのを知っていますか? では、「健康で文化的な最低限度の生活」ってどんな生活かわかりますか?

 

まず日本国憲法についてですが、自民党や右派つまり天皇制と軍隊固執する勢力は、日本国憲法を「アメリカに押し付けられた。独立するには日本国憲法を変えなけrばいけない。」っていうでしょう。そうです、彼らには「押し付けられた」憲法なんですが、GHQですら日本の憲法の民間草案を参照していたし、明治時代から植木枝盛に代表される一般人の起草した民主的な憲法草案はたくさんあるんですよ。ですから、多くの国民には当然の憲法で「押し付けられた」とは思っていないでしょう。

 

こと日本国憲法25条(生存権と呼ばれる)は、帝国憲法改正案委員会(選挙により選出された国会議員で構成された)の中の秘密会とされた小委員会で、GHQ草案の条文の修正を審議したのですが、その際に森戸辰男衆議院議員(経済学者)が発案して合意された条文で、GHQ草案には全くなかった条文なんです。

 

森戸辰男氏は、議員になる前にドイツへ留学していました。ドイツにはワイマール憲法と呼ばれる世界で初めて「生存権」を規定した有名な憲法があり、彼はそれを見たあと戦後の国民の窮状を見てなんとか権利として補償させたいと思ったそうです。そして、小委員会の委員長であった芦田均に反論され、あつい議論を交わした上で他の議員の賛成を得たようです。

 

この論戦はとっても大事なんです。芦田氏は「追求する権利だ」と強調したが、森戸氏は「追求する権利があっても、現在のような困窮状態がある。国によって補償されなければならない。」と応戦した。これを含む小委員会の議事録は50年間封印されていたために、わたしたちの知るところではなかったのです。ですから平気で「押し付けられた」という主張ができ、それに対する明確な反論が出きなかったのでしょうね。

 

さあ、ここで「健康で文化的な最低限度の生活」とはどんな生活なのかと考えてみましょう。というのもその理解が、我が国の生活保護社会保障にも貫かれているからです。このところが問題になった有名な訴訟があります。昭和32年(1957)、重度の結核で国立療養所に長期入院していた朝日茂が、生活保護費の支給基準は劣悪で、憲法に規定する生存権を侵害するとして訴えた行政訴訟で、朝日訴訟として知られています。別名「パンツ1枚訴訟」。

 

原告(朝日茂)は結核で国立岡山療養所に生活保護を受けながら入院中、実兄からの仕送りが始まったのを理由に月額600円の日用品費支給まで停止された。しかし、日用品費等は「余りにも低額で憲法生活保護法に反する」と訴えたのです。当時の日用品費600円の内訳は、2年間で肌着1枚、1年間でパンツ1枚、タオル2枚、下駄(げた)1足、湯飲み1個などとあります。

 

ちょっと想像してみてください。「2年間で肌着1枚、1年間でパンツ1枚、タオル2枚、下駄(げた)1足、湯飲み1個」であなたなら「健康で文化的な最低限度の生活」を営めますか?裁判所はこれを合憲としたんです。とすると、裁判官たちは「2年間で肌着1枚、1年間でパンツ1枚、タオル2枚、下駄(げた)1足、湯飲み1個」で生活を営む自信があるということですよね!わたしにはありません。どうですか?裁判官たちは、1年間をパンツ1枚で生活できるそうです。

 

しかも、最高裁は傍論(ぼうろん)で、憲法25条は「国の責務として宣言したにとどまり、直接個々の国民に対して具体的権利を賦与(ふよ)したものではない」と、見解を出したんです。ここで思い出してください。憲法25条の成立過程の芦田氏と森戸氏の議論を。憲法25条は、政治的・道義的な目標と指針を示す「プログラム規定」であるのか、条文通り国民がその「権利を有する」のか。明らかでしょ、条文通り国民がその「権利を有する」でのすよ。

 

生活保護制度は、幾度となく改定されましたが、この「年間パンツ1枚」思想は制度の根底には流れています。健康で文化的な最低限度の生活」は、具体化する法律によって具体的権利となるわけで、それを定期的に見直し最適化する義務が国にあるはずです。

 

これをみても、先日の森友事件の赤城さん訴訟に対する政府の「認諾」逃げ切りを見ても、とてもじゃあないけど一端の民主主義国家とは言えません。それを許しているわたしたちは、もう一度自分を見直すべきでしょう。

 

でも、悲観することはないと思います。前回の『すてたもんじゃあないぜ!』でも書いたように、Z世代に純粋に「なんかおかしいなあ」と世の中の矛盾と誤りを感じとり、それを正さんと活動する者たちが出てきているんですよ。「ジェネレーション・レフト」という言葉を聞かれたことがあるかもしれません。今アメリカの若者の半数近くが「共産主義」の方が良いのではと答えるようになっています。イギリスでもそのような若者は増えています。

 

気候変動に対して物申す活動家グレタ・トゥーンベリに続けと、日本でも気候正義を求めて闘うZ世代が現れています。気候変動・温暖化問題だけではなく、さまざまな人権を擁護するために立ち上がったZ世代の若者が全世界に現れています。

 

彼らが「左翼」だの「左派ポピュリズム」だのということはどうでも良くって、彼らの主張が受け入れられるリーズナブルなものなのかどうかが大事です。どうして、そのような活動に邁進しているのかというと、原点は幼少期に見聞きして「あれっ?なんかおかしいな?」「なぜそうなの?」と思い、考え続けたことのようです。まさに子供心に芽生えた純粋な疑問、そして「どうでもいいや」と言って思考から除外せずにいたこと、それが原動力なのですね。

 

スタジオジブリ宮崎駿監督の『風の谷のナウシカ』を見ましたか?「王蟲を怒らせないで、王蟲を怒らすと地球が滅びる」!風の谷はまさに宮崎駿監督が描いたアンチ化石燃料の世界ですよね。旧人類があまりにも生命を蔑ろにしてきたことに対する怒りと浄化がテーマでした。ナウシカはこう言います。「大地を傷つけ奪いとり汚し焼き尽くすだけのもっとも醜い生き物。蟲達の方が私達よりずっと美しい」。誰もが幼児期にこんな感覚を持つことがあるでしょう。純粋で真っ直ぐに理解する幼児期の感覚です。これを『理性』と呼びます。

 

でも多くの人は、大人から「これが常識なんだよ」と教え込まれながら、この純粋さ=理性を失っていきます。Z世代には、まだそれを失わずにこだわり続けている者たちがいるんだと言う事です。ことに、2008年のリーマンショックとこのパンデミックと言う「出来事」は、これまで当たり前だった支配的秩序を不安定なものとし、「常識」だったものを瓦解させる。ここに「幼児期の純粋な、なぜ?なんで?なんかおかしい?」と言う感覚が作用し、『ジェネレーション・レフト』を生み出しているのでしょう。

 

わたし自身、大学で学生運動に身を投じて、マルクスレーニン、その他ロシア民主主義者の著作を紐解いたのもそう言うことだったのでしょう。冷戦の東西対立が高まり、モスクワオリンピックをボイコットした年に入学しました。詳しくは言えませんが、親を見ていてこの世の中は何かがおかしいと思っていて、大学で平和や人権の問題を突きつけられて、学生運動、83年燃える秋のヨーロッパ反核運動、三宅島及び逗子市池子の森市民運動などに身を投じていきました。

 

ところが社会人になって、後ろ髪を引かれながらも仕事に忙殺され、全く何もしない日々が続きました。今は、家族、読書、などたっぷり時間があるために、世相の分析やレジリエンスを求めての知識や情報の検索に余念がありません。そして、以前もう一つのはてなブログ『徒然なるしらべにのって』で「脱成長コミュニズム:斎藤幸平さんへの手紙」で書いたように、斎藤さん(わたしの出身大学で教鞭を取られています)追っかけをしていて出会った雑誌『POSSE』で活動するZ世代のことを知りワクワクしながら情報を仕入れてる今日この頃です。「亀裂に楔をー若者はSNSで政治を変える」では、SNSを使って政府決定を変更させたことに触れ、Z世代への応援をしたくなったのですよ。

 

まあ、簡単に真っ直ぐこの「ジェネレーション・レフト」が進み拡大するとは思いません。きっと反対の極からさまざまな「妨害」もあると思うし、揺り動かす力も加えられるとは思います。特に経済的格差が拡大すれば、右の極にも左の曲にも触れるものです。でもわたしには「闇の中の一条の光」に見えるのです。彼らの思考や行動は、きっと民主主義を前進させてくれるでしょう。彼らは、『風の谷のナウシカ』だ!

 

では次回まで。

すてたもんじゃあないぜ!

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Z世代

新型コロナが落ち着き、閉塞された場所から、縛りを失ったバネのように人々は弾み出し、各地の観光地に活気が戻り始め、飲食店にも多くの人が詰めかけ始めた様ですね。

 

しかし、相変わらず経済の先行きは見通せない。それはもちろんだ。経済政策を真っ向から議論する前に、憲法「改正」論議技能実習生の期限なしの可否など、自民党の公約には載っていない議論を足速にやっている始末。たった57兆円の財源で、「バラマキ」だのという議論をしている連中すらいる。そいった「バラマキ」などと言っている連中は、先進諸外国の積極財政を見てどう評するのだろうか?財務省の連中は、米国大統領に向かって「そんなにバラマイたら国家財政が破綻しますよ!」とアドバイスでもしていると言うのだろうか?

 

宮内義彦オリックスシニア・チェアマンの経営者ブログ「「白髪になったオオカミ少年」経済政策の大胆な修正を」を読んでみてほしい。ここのところ財界からまた幾人かの政治家から財務省批判が相次いでいます。そう、あの政務次官の矢野氏の発言がきっかけで、もう我慢の限界だとでも言うかのように財務省に大砲が打ち込まれ始めた。

 

宮内氏は言う。「バブル崩壊以降、日本経済は長期にわたって停滞し、このまま「失われた40年」に突入しつつある昨今です。少子高齢化、人口減少といった課題があるものの、一言でいえば日本社会の活力が失われているのです。これに対し手を打つのが政府の役割であることは言うまでもありません」と。そして、政府の掛け声だけで終わった構造改革、規制改革と、日銀の失策を指摘し、「私は主要通貨を発行する国はインフレにならない限り財政を拡張しても問題ないとするMMT(現代貨幣理論)の考えが正しいと考えます」と表明。

 

しかも、「財政を出動し、より家計にお金を回す。これまでのように企業の投資活動を期待するよりまず消費の活性化をはかり、最終的に供給力増加を生むような経済政策こそ成長と分配の好循環をつくりだすはずです」と、こんなことを言うのは、れいわ新撰組や国民民主党の、少数野党だけだと思っていたら、なんと田原総一郎までが同じことを言い始めた。さあ、財務省や維新の会などはどう反論するのだろうか?

 

さらに「家計にお金を回すにはさまざまな方法があります。全国民一律に一定額を支給する「ベーシックインカム」もその1つでしょう。所得が定められた基準よりも低ければ支給する「負の所得税」といった考え方もあります。今の社会福祉政策の利点をしっかり生かしながら、新しい形に整えていく必要があります。……人間らしく生きる権利を保障するとともに、需要を喚起し経済を回す力がないといけません。」と続く。

 

最後に「好ましい分配政策をつくり出すのは政府の責任です」ですよ。

 

これが財界からの叫び?です。これってわたしを含めて一般大衆が届けるべき声ですよね。さて一体どうなっているのやら。自民党では、財政政策検討本部本部長に就任された西田昌司参議院議員MMT理論支持者です。れいわ新撰組や国民民主党は、なるべく多くの積極財政派を集め、党派闘争ではく共同戦線を張って、財務省に積極財政を展開し具体的な経済政策及び社会保障政策案を提出させるべく楔を打ち込むべきではないでしょうか?

 

では、日本経済に目を向けてみると、2001年から新型コロナウイルス危機前の19年までの日本の経済成長率は年平均0.8%にとどま李ました。米国(2.1%)や英国(1.8%)に水をあけられてしまいました。この20年間で設備の総量を示す資本ストックは1割たらずしか増えなかったし、米国や英国が5~6割ほど伸びたのと大きな差がついてしまった。企業が利益を国内投資に振り向けていないことが原因だと考えられます。 

 

日本企業は稼ぎを減らしてきたわけではない。財務省の法人企業統計調査によると、経常利益の直近のピークは2018年度の84兆円。アベノミクスが始まった2012年度から73%増えています。この間、設備投資は42%しか増えておらず、日本は2010年代、人口減にもかかわらず労働供給は拡大しています。就業者は10年間で378万人増え、特に女性や65歳以上の働き手が多くなったのです。

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さて、これらをみてどう言うことが考えるでしょう。結局、労働生産性を向上させるための投資を行わず、割安な労働力の投入を増やしてきたと言うことでしょう。教育訓練など人的資本への投資も伸び悩んでいる。OECDによると、企業が生み出した付加価値額に対する人材投資の比率は英国が9%、米国が7%に達するのに対して、日本は3%にすぎない。ヒトとモノにお金をかけて成長を目指す当たり前の発想が全く欠けている様に見えます。

 

ところが、海外では積極的にお金を使っています。対外直接投資はコロナ前の19年に28兆円と10年前の4倍に膨らんでいますし、コロナ後も流れは変わらないままです。大手メーカーは、海外のIT企業を巨額で買収するなど、各社が成長の種を外に求める結果、投資が細る国内市場は成長しにくくなるのです。海外で稼いだお金を海外で再投資する傾向もあります。

 

そうなると、国内に何が残るのでしょうか?大企業は、グローバルの名の下に日本を捨て海外に逃げていくのでしょうか?そりゃあそだろう、国内には需要も購買力もないわけですから。あるのは、非正規などの安価な労働力だです。しかも政府は技能実習生の「在留期限なし」を実現して安価な労働力を供給しようとしています。つまり、総合的「低賃金の沈め石」政策ではないでしょうか?わたしたちは、「仕事欲しければ技能実習生並みで我慢してください」と言われる様になるかもしれません。

 

早急に宮内さんの言うように「人間らしく生きる権利を保障するとともに、需要を喚起し経済を回す力」を創成する必要があります。そして、大胆に産業の再編成をして投資を促し、産業を生き返らせる必要があると思います。

 

わたしには、一条の光も見えます。それは、疲弊しているかの様に見えるZ世代も含めた若者の存在です。彼らは、わたしのような年寄りよりももっともっとSDGsへの積極的な取り組みや経済的弱者へ手を差し伸べるパワーを見せています。しかも、流石にSNS世代、志をシェアしたり空間を超えて手を結んだりする術を活用しています。

 

CRRA(シーラ:一般社団法人炭素回収技術研究機構)の機構長に就任した村木風海さんをみてください。「火星に行きたい」という少年の夢を諦めずに「ひっやしー」という直接空気回収マシーンを発明した。そんな研究はやめた方が良いよ」という周りの干渉を物ともせずだ。球温暖化を止める方法から人類の火星移住の実現まで一貫して研究を行っている。彼はまさにZ世代です。農業の分野でも、例えば無農薬作物を作るとか作られなくなった伝統的な作物を復活させるなどの目標で同世代の若者が集まり合うグループが増加しています。

 

我々「年寄り」が足元にも及ばないほど積極果敢に、より良き日本を創成するために活動しています。彼らには私たちとは異なる素晴らしい「常識」があるのではなかろうか?あとは、社会がそれらの芽をなるべく多く見出して、投資をすることが大事です。その一条の光に心から期待を寄せて!

 

では次回まで

漠然とした不安とレジリエンス

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ブログ『徒然なるしらべにのって』を始めてみて、といってもまだ多くの読者を持っている訳でもありませんが(Facebooktwitter以外なんの告知もしてないし、#タグも嫌いなので)、何人かのお友達からもっと短い文章が良いと言われました。

 

ならばというので、日々考える取り止めもないことを綴ってみるのも良いかと思い始め、書いてみたのがこの『夢想譚』です。筋書きもなく、思い浮かんだまま、ですがよろしくお願いします。

 

この年(61歳ちょっと手前)になって、仕事を何時から何時まで、どこへ出掛けて、といったことも無くなって、幸か不幸か十分な時間が手に入りました。で、考えたり、インターネットを検索したり、書籍を読んだり、といった時間が生まれた訳です。そして、身近な人が永眠されて行く。

 

仕事をしていた時は、朝出掛けて夜に戻る、ご飯を食べて、風呂に入って、テレビを少しみながら一杯やって寝る。土、日は家族サービス。じっくり考えたり、本を読んだりなんて実行しようと思ったこともなかった。

 

多くの方が同じ様に、子育てに追われ仕事に追われ、時間があれば外に出かけて気分転換と、じっくり考えたり、何かをじっくりしらべてたり、ましてや何かを綴るなんてことをすることもままならないのが現実でしょうね。

 

でも、時間というのは残酷なもので、わたしたちが何をしていようが同じ様に過ぎ去っていきますし、最も平等にいずれか死を迎えるのです。誰もそれを逃れることはできないのです。

 

遠い過去や遠い未来についての見識は、現在の問題や、人間社会が抱える差し迫ったジレンマを理解する上で、どう役に立つのか?現時点で、何が起こっているのか?今日の重大な課題や選択は何か?私たちは何に注意を向けるべきか?子供たちに何を教えるべきか?

 

とハラリが言う様なことを考えてみたくなる。わたしは長らくITや事業の立ち上げに関わって仕事をしてきたけれども、大学時代には、あの滝川事件で追われた法学者、恒藤恭先生や末川博先生たちを迎え入れ、優れたマルクス主義の学者を抱えた大学に学び、学生運動市民運動でも先頭を切って活動したこともあって、情勢には絶えず敏感になり真面目に考えていた時代がありました。卒業後30年間ちょっとのモラトリアムを終え、再び何かできないかとあまりある時間を使って何か書き残そうともがいています。

 

2020815日の敗戦の日に、フィリピンから日本へ戻ってきました。2006年にフィリピンに移住して約13年ぶりですね。理由は、人工透析を受けなければならなくなったからです。コロナ禍の中、フィリピンにいてもまともにビジネスもできないし、日本のように人工透析をして無料で医療を受けることもできない、フィリピンの病院じゃあ何か安心できない(制度も日本と異なる)。

 

日本に戻ってから、毎日が新型コロナ報道ばかり。フィリピンではまず考えられない理由なき殺人事件、そして選挙合戦。なんという閉塞感!

 

わたしは、小学校3年生の頃から剣道を学び始めました(すぐ下の弟は、高校からPL学園へ誘われ、高校3年生の時にインターハイで剣道部門の個人優勝を果たし、日本で初めて設立された国立の体育大学である鹿屋体育大学へ1期生としてゆきました。一番下の弟も小学校1年生から高校3年生まで剣道を続けました)。なので、たまたま先生たちから武士道で言う生き方を多くを学んだんです。ですから、善悪、やってはならぬこと、やるべきこと、などといった明確なレジリエンス(心の耐久力、回復力)をそれなりに身につけたつもりですが、日常の「クソ」忙しさはそれを忘却の彼方に押しやっていっている様な気がします。

 

フィリピンにいると大きく日本と異なるものの一つは、宗教観でしょうか。諸外国では神を持つことや神について話すことは普通です。でも、日本ではほとんどタブーですよね。別の言い方をすれば、「無宗教」と言う宗教なんですよ、日本人は。宗教は、まさに人々にレジリエンスを与えます。それがないと、今のような混沌とした将来不安の漂う日本では、自殺や犯罪、京王線で起こった「ジョーカー男」殺人事件のような、が増加するでしょう。そんな芽は至る所に見受けられます。

 

世の中が不況あるいは不安定になると、宗教人口が増えるのをご存知でしたか?そう、みんな「心のレジリエンス」を求めるのですよ。「皆が不快な思いをせずに暮らす」ための「心の基軸」を求めるわけです。

 

大学前は武士道が、大学時代はマルクス主義が、そして30年のモラトリアムを経て、フィリピンではキリスト教カソリックではないです)を。「心のレジリエンス」を求めたのです。

 

イギリスでの産業革命以降、時代は自由主義ファシズム共産主義という異なる物語を与えました。1945年にファシズムは崩壊し、その後自由主義共産主義という物語の対決が続きました。が、1991年に共産主義という物語は潰えさりました。そして、自由主義の物語がまるで不動の地位を得たかの様でした。

 

ところが、自由主義は対抗する共産主義を失った後、グローバリズム化して徐々に横暴な振る舞いを見せ始め、格差社会の拡大と共に生まれ出たトランプに象徴されるポピュリズムが元来共産主義が包含するはずの勢力を飲み込み、かつてのヒトラーを彷彿とさせる様相をも見せ始めました。つまり自由主義はどうも不死身ではない様です。

 

日本でも格差は拡大し、今や外国人が喜んで買い物に来る安いモノの溢れる貧乏国ニッポンになり、やがてフィリピン人のように海外へ出稼ぎに行かなくてはならない国になってしまうのではないかという不安すら巡ります。これでは、そのうち毎日新聞あたりが「満蒙は生命線」と一面を飾るのではないかとすら想像してしまいます。

 

わたしは、長らくIT産業アナリストとして分析や予測を書いてきました。テクノロジーをいつも善として、右肩上がりの予測を当たり前のように提供してきました。テクノロジーの発明や良き側面には注力できても、その利用方法にまで思いを馳せ切ることには疎かったと反省します。例えば、ドローンです。離島にまでも物や人を運べる様になり、空からの美しい景観を撮影してくれる、と素晴らしき側面や未来を描くことはしても、それが戦闘に使われ、まるでゲリラのように人を殺傷しているという側面には目を塞いでいるのです。

 

わたしは、かつての不幸な轍を踏まないように歴史に学び、現在起こっている事象をしっかり見抜き、そして何よりも「心のレジリエンス」を共有したいと今思っています。

 

では次回まで