夢想譚

過去、現在、未来について日々考えたこと

漠然とした不安とレジリエンス

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ブログ『徒然なるしらべにのって』を始めてみて、といってもまだ多くの読者を持っている訳でもありませんが(Facebooktwitter以外なんの告知もしてないし、#タグも嫌いなので)、何人かのお友達からもっと短い文章が良いと言われました。

 

ならばというので、日々考える取り止めもないことを綴ってみるのも良いかと思い始め、書いてみたのがこの『夢想譚』です。筋書きもなく、思い浮かんだまま、ですがよろしくお願いします。

 

この年(61歳ちょっと手前)になって、仕事を何時から何時まで、どこへ出掛けて、といったことも無くなって、幸か不幸か十分な時間が手に入りました。で、考えたり、インターネットを検索したり、書籍を読んだり、といった時間が生まれた訳です。そして、身近な人が永眠されて行く。

 

仕事をしていた時は、朝出掛けて夜に戻る、ご飯を食べて、風呂に入って、テレビを少しみながら一杯やって寝る。土、日は家族サービス。じっくり考えたり、本を読んだりなんて実行しようと思ったこともなかった。

 

多くの方が同じ様に、子育てに追われ仕事に追われ、時間があれば外に出かけて気分転換と、じっくり考えたり、何かをじっくりしらべてたり、ましてや何かを綴るなんてことをすることもままならないのが現実でしょうね。

 

でも、時間というのは残酷なもので、わたしたちが何をしていようが同じ様に過ぎ去っていきますし、最も平等にいずれか死を迎えるのです。誰もそれを逃れることはできないのです。

 

遠い過去や遠い未来についての見識は、現在の問題や、人間社会が抱える差し迫ったジレンマを理解する上で、どう役に立つのか?現時点で、何が起こっているのか?今日の重大な課題や選択は何か?私たちは何に注意を向けるべきか?子供たちに何を教えるべきか?

 

とハラリが言う様なことを考えてみたくなる。わたしは長らくITや事業の立ち上げに関わって仕事をしてきたけれども、大学時代には、あの滝川事件で追われた法学者、恒藤恭先生や末川博先生たちを迎え入れ、優れたマルクス主義の学者を抱えた大学に学び、学生運動市民運動でも先頭を切って活動したこともあって、情勢には絶えず敏感になり真面目に考えていた時代がありました。卒業後30年間ちょっとのモラトリアムを終え、再び何かできないかとあまりある時間を使って何か書き残そうともがいています。

 

2020815日の敗戦の日に、フィリピンから日本へ戻ってきました。2006年にフィリピンに移住して約13年ぶりですね。理由は、人工透析を受けなければならなくなったからです。コロナ禍の中、フィリピンにいてもまともにビジネスもできないし、日本のように人工透析をして無料で医療を受けることもできない、フィリピンの病院じゃあ何か安心できない(制度も日本と異なる)。

 

日本に戻ってから、毎日が新型コロナ報道ばかり。フィリピンではまず考えられない理由なき殺人事件、そして選挙合戦。なんという閉塞感!

 

わたしは、小学校3年生の頃から剣道を学び始めました(すぐ下の弟は、高校からPL学園へ誘われ、高校3年生の時にインターハイで剣道部門の個人優勝を果たし、日本で初めて設立された国立の体育大学である鹿屋体育大学へ1期生としてゆきました。一番下の弟も小学校1年生から高校3年生まで剣道を続けました)。なので、たまたま先生たちから武士道で言う生き方を多くを学んだんです。ですから、善悪、やってはならぬこと、やるべきこと、などといった明確なレジリエンス(心の耐久力、回復力)をそれなりに身につけたつもりですが、日常の「クソ」忙しさはそれを忘却の彼方に押しやっていっている様な気がします。

 

フィリピンにいると大きく日本と異なるものの一つは、宗教観でしょうか。諸外国では神を持つことや神について話すことは普通です。でも、日本ではほとんどタブーですよね。別の言い方をすれば、「無宗教」と言う宗教なんですよ、日本人は。宗教は、まさに人々にレジリエンスを与えます。それがないと、今のような混沌とした将来不安の漂う日本では、自殺や犯罪、京王線で起こった「ジョーカー男」殺人事件のような、が増加するでしょう。そんな芽は至る所に見受けられます。

 

世の中が不況あるいは不安定になると、宗教人口が増えるのをご存知でしたか?そう、みんな「心のレジリエンス」を求めるのですよ。「皆が不快な思いをせずに暮らす」ための「心の基軸」を求めるわけです。

 

大学前は武士道が、大学時代はマルクス主義が、そして30年のモラトリアムを経て、フィリピンではキリスト教カソリックではないです)を。「心のレジリエンス」を求めたのです。

 

イギリスでの産業革命以降、時代は自由主義ファシズム共産主義という異なる物語を与えました。1945年にファシズムは崩壊し、その後自由主義共産主義という物語の対決が続きました。が、1991年に共産主義という物語は潰えさりました。そして、自由主義の物語がまるで不動の地位を得たかの様でした。

 

ところが、自由主義は対抗する共産主義を失った後、グローバリズム化して徐々に横暴な振る舞いを見せ始め、格差社会の拡大と共に生まれ出たトランプに象徴されるポピュリズムが元来共産主義が包含するはずの勢力を飲み込み、かつてのヒトラーを彷彿とさせる様相をも見せ始めました。つまり自由主義はどうも不死身ではない様です。

 

日本でも格差は拡大し、今や外国人が喜んで買い物に来る安いモノの溢れる貧乏国ニッポンになり、やがてフィリピン人のように海外へ出稼ぎに行かなくてはならない国になってしまうのではないかという不安すら巡ります。これでは、そのうち毎日新聞あたりが「満蒙は生命線」と一面を飾るのではないかとすら想像してしまいます。

 

わたしは、長らくIT産業アナリストとして分析や予測を書いてきました。テクノロジーをいつも善として、右肩上がりの予測を当たり前のように提供してきました。テクノロジーの発明や良き側面には注力できても、その利用方法にまで思いを馳せ切ることには疎かったと反省します。例えば、ドローンです。離島にまでも物や人を運べる様になり、空からの美しい景観を撮影してくれる、と素晴らしき側面や未来を描くことはしても、それが戦闘に使われ、まるでゲリラのように人を殺傷しているという側面には目を塞いでいるのです。

 

わたしは、かつての不幸な轍を踏まないように歴史に学び、現在起こっている事象をしっかり見抜き、そして何よりも「心のレジリエンス」を共有したいと今思っています。

 

では次回まで